2012年1月4日水曜日

無題の詩のメモ (English translation's coming soon.)


「無題」

3月の震災後の新聞を
母に頼んでとっておいてもらったのに、
夏に帰国した時、開けなかった束は、
そのまま自室に積まれていた。

節電で薄暗い電車に揺られても、
暖かくない便座に座っても、
間引きされた街頭の下
心細くひとり夜道を歩いても、
涙ひとつこぼれずに
「不便だなぁ」と思った私は、
震災の揺れも余震も知らなくて、
何にも胸が痛まなかった。

何も知らない、それでも、
積み上げられた
3月12日から31日までの新聞を
広げることが出来なかった。
月日だけが過ぎ、
どこか気まずい視線を何度か
新聞紙に落としては、
やめ、私はまた
アメリカへ戻った。

友が聞く―
震災後のジャパンについて。
説明するときの胸の痛みは、
被災者や帰宅難民となった家族の
それではなく、
「何も知らないのに」
という自責の念からのもの。

年末の日本へ帰って、
間もなくの朝、
ようやく紐解いた新聞の束から
一番下の、
3月12日の朝刊を手に取り
広げた一面には、
真っ黒な長方形に
「巨大地震」という
聞きなれない名前の白抜き

被災者の写真がひとつも無いのが
とても不思議で、
どれだけこの津波が「全て」を
飲み込んでしまったのか、考える。

翌日、翌々日、、、の
紙面を見ると、
行方不明者の数の隣に、
徐々に死亡者数が載りはじめ、
やがて不明者の数は、
砂時計のように
死亡者数へと減り始めた。
きっと、
落ちていく砂をただ
見つめることしか出来ないような時間が
過ぎていったのだろうと、初めて涙が出た。

自室にひとり、
まだ20日にも届かない新聞を広げながら
目を閉じた。

いつか私が被災した時、
思い出すのは、新聞を広げたときの衝撃なのか。
悔やむのは、新聞たちを無視し続けた夏なのか。

―と、母が
「買い物に行くけれど、何か買い物は?」と
ドアをノックしたので、
「では、スクラップブックを」と
頼もうとして、
やめる。

この新聞は、どこか一部だけ、
切り取って保管するようなものではないのだと
思ったから。
3月だけとっておくべきものでもなかった、とも思った。
あれから毎日、変わらず、海が舐め続けるのに、
海岸沿いの傷さえ、まだ癒えないのに、
3月だけ切り取った私は、
何も解かっていなかった、と。

31日の新聞に目を通し、
また紐をかけた束を、
どこに仕舞うか迷って、でも、
勉強机の下に置くことにした。
本や手紙が押し込まれたところの、
僅かな残りのスペースに。

あれから机に向う時、
しょっちゅう、新聞紙の束に
足先をぶつけていたのが、
最近では、
うまく避けて座れるようになった。

そんなこの頃、また私は、
自分の慣れやすさに胸が痛む。

松下綾子

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